三年七か月後の言い訳、「日本の若者は、別に『世界』で勝たなくてもよいのかもしれない」について

 そろそろ言い訳を書こう。
 三年七か月前に書いた文章だ。題は、「日本の若者は、別に『世界』で勝たなくてもよいのかもしれない」
 この文章は、当時相当叩かれた。同時に現在、この「折り返して逆サイド」で、恐らくもっとも多く読まれた文章でもある。
 この文章に付いたコメントに返事を書いたり、他の文章も読んでくれと書いたことはあるが、私はこの文章への批判に対して正面から対応したことは無かった。
「あれは本意ではない」などとすぐに書くと、政治家の失言みたいで格好悪い、と思ったことがひとつある。それから批判中の人間に反論して、冷静に読んでくれるかどうかにも自信が無かった。
 言い訳をするなら、ああした文章があったことを忘れられるくらいの時間が経ってからと思っていた。この文章はドイツW杯での日本の敗戦について書いたものだ。南アW杯の終わった今なら、いい時分だろう。

 まずは、全文を再掲する。


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日本の若者は、別に「世界」で勝たなくてもよいのかもしれない

<< 作成日時 : 2007/01/15 20:56 >>

 オシムの伝記「イビチャ・オシムの真実」(Gerald Enzinger and Tom Hofer著)の巻末に、この本の訳者である平陽子氏の文章がある。彼女は日本代表の宿舎で仕事をする機会があったという。少々長いが引用する。

ボン合宿中に私が垣間見たものは「ストイックな戦う男たちの集団」ではなく、部屋のテレビに日本製ゲーム機が接続できないから困るとか、ドイツの魚は臭みがあるから食べられないとか、「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」そのものでした。また、宿舎に詰めていた警備員がある時、「日本人というのは闘争心あふれる立派な国民だと思っていたのに、試合を見たら全然違うじゃないか! 負けて宿舎に戻ってきてもヘラヘラ笑っているし、朝方まで部屋で騒いだりしているし、一体どうなってるんだ?」と私に率直な疑問をぶつけてきました。彼は、スイスとのプレーオフに負けてワールドカップ出場を逃したトルコからの移民でした。私は「これが現代の日本の若者なんだから仕方ないでしょう!」と逆ギレしました。

 恐らく、その通りなのだろう。
 噂されるような選手間の「サッカー戦術の対立」よりも、こうした「気の抜けた若者たち」のほうが深刻な問題に思われる。
「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」では、「勝って国民を鼓舞したい」とか、「貧しい国民を勇気づけたい」とか、あるいは「下手な試合をしたら国へ帰れない」という国民よりも動機付けが足りないのではないか。
 オシム監督は日本代表でゲーム禁止令、日本人コック帯同不可などを打ち出している。日本人の若者が普段通りに振る舞ったらとても戦う集団にはならない、と考えているのかもしれない。

 とは言いつつも。
「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」では勝てない、と言うのなら、勝たなくてもいいのではないか?
 幸福な国民では勝てないというのなら。
 国民は幸福な方が良い。

 貧しくてろくにボールも買えないような家庭に生まれ、臭みがあろうとなんだろうと食べられる飢えた環境で育ち、闘争心をむき出しにした戦う男たちの集団にならなければ勝てない、というのなら。
 日本の若者は、別に「世界」で勝たなくてもよいのかもしれない。

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 批判を浴びた当時、私はこの文章を何度も読み返した。間違ったことを書いていたのなら、訂正しなければならない。
 だが、論理的に間違ったことは書いていない、と思った。
 この文章は間違っている、という批判に対しては、「それなら貧乏してみたら」という反論が出来る。一日、24時間、水だけで過ごしてみたらいい。ハングリーを仮体験してみたらいいのだ。相当つらいだろう。

 …………
 まあ、待ってください。
 これを読んだ人がどんな感想を持つのか、今の私はわかっている。

 この文章は論理的には間違っていない、と今でも思っている。だが、書くべきことを全て書いているわけではない。書くべきことが十あるとしたら、六ぐらいしか書いていない。
 一番、書き忘れたことはこれだ。

 私は、日本代表が勝たなくていい、などと思ったことはない。

「日本の若者は、……」を読んだ人はこう思うだろう。これを書いた人は、日本代表が負けても良いと思っているのだ。そのために変な屁理屈を並べているのだ、と。だが、書いた人間は、「日本代表が負けていい」などとは全く思っていないのである。負けるだろう、と予想したことは何度もあるけれども。
 なぜ書き忘れたのか。日本代表に勝ってほしいという思いは、自分にとってあまりにも当たり前だから、うっかりしたのである。
 馬鹿なことだ。

 さて、「日本の若者は、別に「世界」で勝たなくてもよいのかもしれない」、と書いた人間自身が勝たなくて良いとは思っていない、というのはどういうことか。
 この文章に書いてあるのは、ただの論理展開なのだ。
 ハングリーさが足りないから負けた、という論理を押し進めると、こういう結論になりはしませんか、ということである。

 なぜ、そんな論理展開をしたのか。
 これを書いた時の私は、二つの負の感情にとらわれていた。ひとつは平陽子氏の書いた日本代表選手たち、戦う集団になっていない男たちに対して怒っていたことだ。だが、もうひとつ、平陽子氏が日本代表選手達を「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」とステレオタイプに評していたことも不愉快に思っていた。
 この二つの負の感情を整理しないで文章化してしまった。感情が整理されていないから冷静ではなかった。だから十書くべき文章を六で、論理展開だけを書いて止めてしまったのである。

 残りの四については批判した人が指摘している。論理的に正しい文章の結論がおかしい場合、前提条件が間違っている。
 例えば、貧乏な国がサッカーが強いかというとそんなことはない、という批判があった。いわゆる五大リーグが行われている国はいずれもヨーロッパの強豪国だが、それらは欧州の中でも豊かな国だ。ブラジルもアルゼンチンも南米の中では豊かな国である。W杯に出場してくるアフリカ代表も、アフリカの中では豊かな国々だ。
 そんなことくらい、これを書いた以前から私は知っている。だから書き忘れたと言っている。

 もうひとつ言うなら、ハングリーというのは強い動機になり得るが、動機になり得るのはハングリーばかりではない、ということがある。
 あるスポーツで、うまくなりたい、強くなりたい、試合に勝ちたい、という気持ち。それには多種多様な動機がある。
「厳しい父親の期待に応えようとした」
「サッカーのうまい兄に追いつきたかった」
「何の取り柄もないぼくだが、ボールを蹴ると、その時だけ友達が『お前、すげえな』と言ってくれた」
 いくらでもある。貧乏から抜け出したい、といういわゆるハングリー精神は、たくさんある動機の中で一番わかりやすいから強調されてきたに過ぎない。
 ドイツW杯の惨敗後、南アW杯で日本は16強となったが、この4年間でそれほど貧乏になったのか?
 糾弾されるべきは、若者が何の不自由もなく育ったことではなく、代表選手達の心理的マネージメントに失敗したことではないのか。

 ついでに言おう。私はもうすっかりおじさんだが、「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」という言葉を使われた場合、私は若者側に入ると思っている。私は物心がついた頃には高度成長期で、就職直後にバブルがやってきた。食うに困ったことなどない。自分には現在の若者を、「何の不自由もしていない」と言う資格などないのだ。

 だから、そういうことごとを書き忘れたわけだ。
 あれから反省した。感情を整理し、書くべきことを考えてから文章を書こうと心がけている。時々失敗することもなくはないが。

 ところで、この「日本の若者は、……」だが、これが注目を浴びたおかげで、「折り返して逆サイド」がブレイクしてしまった。これ以降、記事を読んでくれる人が何倍にもなったのだ。
 ブログだから読まれるために書いているわけだが、これがきっかけにカウンターが回るようになったのは痛し痒しである。

「日本の若者は、……」から、「折り返して逆サイド」を読み始めた。それからずっと読み続けている、という常連さんはどれだけいるのだろうか。少々聞いてみたい気はする。



[追記]調べてみたら、2007年2月に書いた「ヘナギがパスし、師匠が倒れた時、誰がゴールしたのか」のほうが、カウンタ数は多かった。

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