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zoom RSS サッカー観戦と闘争心

<<   作成日時 : 2014/01/10 19:55   >>

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 二シーズン制への移行に関連して、一試合あたりのサッカー観戦者数が増えていないことが、Jリーグからあげられていた。データの読み方は人それぞれなのだろうが、仮にそれが事実だとしよう。
 サッカー観戦者を増加させることは可能だろうか。
 その前に疑問がある。そもそも現在、日本人はスポーツ観戦自体を求めているだろうか。
 テレビの地上波でサッカーは放映されない。視聴率が取れないからだ。
 地上波で放映されないのはサッカーばかりではない。かつてドル箱だったプロ野球放送もBS・CS放送へ追いやられて久しい。私が子供のころはプロレスもゴールデンタイムに放映されていたが、いつしか地上波深夜枠になりその深夜枠からも去った。ゴルフの放映も減った気がする。
 スポーツは物好きの嗜む趣味となったようだ。

 日本人はスポーツを観ない民族へと変化したのだろうか。
 もしそうだとしたら何が変わったのだろう。ひとつの仮説は闘争心の減退だ。

 統計などを見たわけではないのだが、私の周囲の若い男性や子供たちを見て、かつてよりもおとなしくなった、と感じることがある。私が子供のころ、私の周囲にいた子供たちはもっと乱暴だった。隙あらば相手を腕力で脅しつけて自分の力を誇示しようとしていた。
 長じて私の若い頃。その時も人より上に立とうという意思を見せてはばからなかった若者が多かった気がする。しかし、最近近所で子供たちが激しく争うさまを見ることは少なくなった。仕事を一緒にしている若い人たちの中にも、何を食べてどう育ったらこうなるのかという、物腰の柔らかい、誰ともまるで争おうとしない若い男性を見ることがある。
 こうした変化が日本の長い平和の結果だというなら良いことだ。暴力などかけらもない穏やかな日々はありがたいし、生きるに易い。安寧結構。
 しかし、スポーツ観戦というものを考えたとき、それはどうなのか。

 鍵となるのは闘争心だ。
 健康増進のためのジョギングなどに闘争心は必要ない。しかし、サッカーのような集団で勝敗を争うゲームに闘争心は不可欠だ。プレーする者だけではない。観戦者は自らの心情をプレーヤーに付託する。目の前のあるいはテレビの向こうの選手たちは、観ている私たちの代わりに戦っているのだ。
 その下に流れているものは相手を倒してでものし上がりたいという闘争心だ。そうした闘争心は原始の時代からあった。それは自分が生き残りたいという生存本能に立脚してきた。
 その闘争心をむき出しにしてナマのまま戦わせたのでは危険だ。サッカーには厳としたルールがあり、それを裁く審判が配されている。フェアプレー精神は、相手を蹴落としてでもという、乱暴な闘争心を制御する。だからこそスポーツは成立できる。
 しかし、闘おうという意思がなければ、そもそも競技スポーツ自体が成り立たない。

 生きること自体が困難な時代が去って、人々は争う心を必要としなくなったのではないか。
 闘争心そのものが減退してしまったような世の中で、スポーツを観に出かける、あるいはテレビでスポーツを観ようという人々が、増えていくということがありうるだろうか。

 それなら、スポーツ観戦を必要としない人々が増えてしまったのも、必然的な結果ではないだろうか。

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