折り返して逆サイド

アクセスカウンタ

zoom RSS 愛と恋、日常と熱狂

<<   作成日時 : 2014/11/12 19:55   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 吉野朔実の漫画、『カプートの別荘へおいで』(「エキセントリクス 4巻」所収)のラストにこんな言葉がある。

 愛が孤独を救うことはないのだ
 恋だけが 一時人の孤独を忘れさせる
 ただ恋だけが 一瞬 愛の無力を忘れさせる


 この言葉が、作品の中でどんな意味を持つのかは、『カプートの別荘へおいで』を読んでいただくとしよう。まずここで注目しなければならないのは、愛と恋という言葉の違いについてだ。
 愛と恋はしばしば混同して語られる。実際に意味は似ている。しかし、違う字を当てている以上、全く同じ意味ではない。
 例えば、家族愛、という言葉はあるが、家族恋、という言葉はない。
 何十年か妻と連れ添った老いた夫がいたとして、彼が「私は妻を愛している」と言ったなら、ご立派なことだと受け止められる。だが、何十年も連れ添いながら、「私は妻に恋している」と言ったなら、それはなにやら奇妙である。
 そういえば、「私は恋をしていないと生きてるって気がしないのよ」という科白もあった。ここに恋の代わりに愛を入れることはできない。何から引いたんだっけ。秋月りす『OL進化論』か。
 つまり愛は日常の中にあるもの、恋は一時的な熱狂を示すもの。そうした意味の違いがあると認識していいだろうか。

 さて、ここで考えたいのは漫画作品ではない。愛と恋の意味の違いでもない。サッカーのことだ。
 先ほどの「愛が孤独を……、」から、ふと思ったのだ。愛、を日常的な幸福、恋、を一時的な熱狂、と解するなら、これはサッカー、いやラグビーでもボクシングでもいいが、スポーツ観戦の話になるのではないかと。
 世の中には、なにか、欠落を抱えている人がいる。その欠落を孤独と言い換えてもいいだろう。そんな人も家庭を持つことがある。日常には幸せが訪れた。しかし、それでもまだ満たされぬものがある。そういう人がいる、ということだ。

 人はなぜスポーツを見に行くのだろう。自分がやるわけでもないのに。見に行くのは自由な時間が比較的多い独身者ばかりではない。中には伴侶や愛する子を家に置いて見に行く人がいる。
「わたしとサッカーのどちらが大事なの?」
 これは古くてありふれた問いだ。その、「わたし」は恋人かもしれないし、ひょっとしたら乳飲み子を抱えた愛妻かもしれない。
「もちろん、君のほうが大事さ。じゃ、行ってくるから」
 この回答は正しいのかもしれないし、致命的に間違っているのかもしれない。しかし、彼もしくは彼女(?)はサッカー等を見に行ってしまう。なぜそんなことが起こり得るのか。

 愛に溢れた日常を持ちながら、世の中にはそれでも満たされぬものを抱えている人がいる。そうした人には、熱狂が必要なのだ。欠落、あるいは、孤独を忘れさせる一瞬の熱狂が。
 そんな恒久の欠落をなぜか抱えた人を伴侶とした相手は、なぜその人がサッカー等の観戦に夢中になるのかわからないのである。
 勝って喜びとともに帰るのならともかく、負けてばかりのクラブもあるというのに。しかし、その人は、勝利という歓喜ばかりでなく、敗北という落胆を伴う熱狂も求めてしまうのである。

 振られても振られても、失恋を何度繰り返しても、恋をせずにはいられない人がこの世にいるように。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
愛と恋、日常と熱狂 折り返して逆サイド/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる